日本の観測史上最大の地震と津波
2011年3月11日に三陸沖を震源とした超巨大地震が発生しました(平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震)。地震の規模を示すマグニチュードは9.0-9.1で、日本の観測史上最大の規模でした。この地震による津波は大きな被害をもたらし、特に地震の破壊領域に近い東北地方では、低地の広範囲に浸水が及びました。
また、津波は太平洋を伝播し、ハワイやチリ等の環太平洋地域の国々にも到達しました。この地震は、発生当時「未曾有(今までに一度もなかった)」「想定外」の災害と言われましたが、本当にそうだったのでしょうか?
震災前の地震の想定
東北日本では、大陸プレートの下に海洋プレートが年間約8 cmの速度で沈み込むことによりプレートの境界でひずみが蓄積し、時折そのひずみが解放されることで地震が発生します。
東北地方太平洋沖地震が発生する前、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は日本海溝沿いを8つの領域(三陸沖北部、三陸沖中部、宮城県沖、三陸沖南部海溝寄り、福島県沖、茨城県沖、房総沖、三陸沖北部から房総沖の海溝寄り)に分け、領域ごとに主にM7クラスの地震の発生間隔と確率を評価していました(地震調査研究推進本部、2009)。
特に、「宮城県沖」の領域は今後30年以内にM7.4前後の地震が99%の確率で発生するとされていました。一方で、東北地方太平洋沖地震のように複数の領域にまたがる広い破壊領域を持つ地震については考慮されていませんでした。
100年前に指摘されていた東北地方の大災害
当時の地震本部は、主に観測記録により日本海溝の地震を評価していましたが、歴史・地質の研究者は江戸時代以前の地震にも注目していました。日本海溝で発生した地震の最も古い記録は、日本三代実録にある貞観十一年の地震(貞観地震・津波)と言われています。
歴史地理学者である吉田東伍(よしだ とうご)(1864年 - 1918年)は、いち早くこの記録に注目し、1906年に『貞観十一年 陸奥府城の震動洪溢』という論文の中で東北地方における巨大地震・津波の存在を指摘しました。
しかしながら、吉田が残した論文は長く注目されず、防災への教訓として生かされないままでした。これは、日本三代実録に残された数行の記述だけでは、貞観の地震・津波をどのように評価すべきか分からなかったからでした。
(阿賀野市立吉田東伍記念博物館提供 許諾写資No.251031)
仙台平野周辺で見つかった貞観津波の地質痕跡
吉田の論文から100年近く経過した後、地質の研究者が貞観地震・津波の実態を明らかにする試みを始めました。
大きな津波が押し寄せると、海岸が侵食されて大量の土砂が内陸まで運搬されます。この運搬された土砂を「津波堆積物」と呼びます。
仙台平野では、東北電力と東北大学の2つの研究グループによって、1990年代初頭に貞観の津波堆積物が初めて報告されました(阿部ほか(1990)、Minoura and Nakaya (1991))。これらの報告では、西暦915年に降下した十和田カルデラ起源の火山灰層(以下、十和田a火山灰。阿部ほか(1990)では灰白色火山灰、Minoura and Nakaya(1991)ではgrayish-white felsic tephra)の直下の砂質層を貞観の津波堆積物と結論づけました。
さらに、阿部ほか(1990)では、貞観の津波は「昭和8年の津波(西暦1933年の昭和三陸地震)の規模をしのぐものであったことは疑いない」「慶長16年(1611年)に匹敵するような大津波であった」とも述べています。
東北大学の研究グループはその後も研究を続け、2001年までに福島県相馬市の松川浦、宮城県多賀城市の市川橋遺跡の津波堆積物を報告しています(菅原ほか、2001)。これらの報告は、歴史書に数行だけ書かれている津波の地質学的証拠を示したという点で画期的でしたが、当時の研究では津波の浸水範囲を知るには未だ不十分でした。
産総研による貞観津波の研究
平成17-21(2005-2009)年度にかけて、文部科学省の委託事業「宮城県沖地震における重点的調査観測(宮城沖重点)」が行われました。これは、東北大学が中心となった事業で、宮城県沖で発生する地震の観測を重点的に行うというものです。
産業技術総合研究所では、その一環として石巻平野、仙台平野、常磐海岸周辺に残されている過去の巨大地震の痕跡を調べることになりました。特に、貞観津波の浸水範囲を精度よく復元することを目的として、仙台平野全体を網羅するように、海岸から内陸へ向かう測線を設けて掘削調査を行いました。
宮城県から福島県北部の調査結果
石巻平野(東松島市、石巻市)
宮城県石巻市では、ジオスライサー等を用いて合計49地点で掘削調査を行いました。また、公共工事の際に見られた露頭面の観察から、十和田a火山灰(西暦915年)をはじめとする地下堆積物の観察を行うことができました。
その結果、泥炭層あるいは有機質泥層に挟まれた津波堆積物が3層確認されました。これらの津波堆積物のうち、十和田a火山灰の直下にあるものを、その堆積年代から貞観津波による津波堆積物と考えました。
また、十和田a火山灰がなくても、放射性炭素年代測定によってその堆積年代が貞観年間と近いものは、貞観津波による津波堆積物と判断しました。
浜堤列という特徴的な地形とその年代から、貞観の津波が発生した時期のおおよその海岸線の位置を推定することができます。石巻平野では、現在の海岸線から0.8-1.3 km付近に貞観時代の海岸線があったと推定され、貞観の津波は少なくとも当時の海岸から2.5-3.0 km以上にわたって浸水したと考えられました。
仙台市
仙台市では、浜堤列を横断する2測線を設け、ジオスライサー等を用いて合計104 地点で掘削調査を行いました。その結果、泥炭層あるいは有機質泥層に挟まれた津波堆積物が最大で7層確認されました。
これらの津波堆積物のうち、十和田a火山灰の直下にあり、放射性炭素年代測定によってもその堆積年代が貞観年間と近いものを貞観津波による津波堆積物と認定しました。
また、十和田a火山灰の下にあるものの放射性炭素年代によって年代を確認していない砂層、火山灰層が見られないあるいは年代測定を行っていないが層序的に対比ができる砂層についても、貞観の津波堆積物の可能性が非常に高いと判断しました。
石巻平野と同じ方法で当時の海岸線の位置を復元し、津波堆積物が分布している場所から推定したところ、当時の海岸から2.5-3.0 km以上にわたり津波が遡上したと考えられました。
名取市、岩沼市
名取市や岩沼市では、浜堤列を横断する2測線を設け、合計45地点で掘削調査を行いました。その結果、泥炭層あるいは泥層に挟まれた津波堆積物が最大で3層確認され、これらの津波堆積物のうち十和田a 火山灰直下に分布する貞観津波の堆積物は現在の海岸線より約5.0kmの地点まで観察することができました。
貞観津波襲来当時の海岸線の位置は、現在の海岸線より1km程度内陸に存在していたと推定されることから、貞観津波の遡上距離は少なくとも4.0kmと考えられました。
亘理町
亘理町においても浜堤列を横断するような2測線を設け、合計48地点で掘削調査を行いました。その結果、泥炭層あるいは有機質泥層に挟まれた津波堆積物が最大で4層確認されました。
これらの津波堆積物のうち、十和田a火山灰の直下にあり、放射性炭素年代測定によってその堆積年代が確認されたものは、現在の海岸線から約3.5kmの地点まで確認できました。
また、十和田a火山灰の下にあるものの放射性炭素年代によって確認していない砂層、層序的な対比によって貞観の津波堆積物と考えられるものは、現在の海岸線から約4.0kmの地点まで確認できました。
貞観津波襲来当時の海岸線の位置は、現在の海岸線より1.5-2.0km程度内陸に存在していたと推定されることから、当時の海岸線から2.0km以上にわたり津波が遡上したと考えられました。
山元町
仙台平野南部の山元町では、浜堤を横断する1測線を設け、合計30地点で掘削調査を実施しました。測線上では、泥炭層あるいは有機質泥層に挟まれた津波堆積物が最大で8層確認されました。
これらの津波堆積物のうち、十和田a火山灰の直下にあり、放射性炭素年代測定によってその堆積年代が確認されたものは、現在の海岸線から約2.0kmの地点まで確認できました。
また、十和田a火山灰の下にあるものの放射性炭素年代によって確認していない砂層、層序的な対比によって貞観の津波堆積物と考えられるものは、現在の海岸線から約3.0kmの地点まで確認できました。
貞観津波襲来当時の海岸線の位置は、現在の海岸線より1.0km程度内陸に存在していたと推定されることから、当時の海岸線から1.0km以上にわたり津波が遡上したと考えられました。
福島県南相馬市
福島県南相馬市では、鹿島区の11地点、小高区の43地点で掘削調査を行いました。このうち、小高区では、字福岡周辺の低地において泥炭層あるいは有機質泥層に挟まれた連続性のあるイベント堆積物が3層確認され、これらを津波堆積物と認定しました。
これらの津波堆積物の年代は、西暦730年-970年、西暦550年-680年、紀元前700年-西暦200年と推定され、最上位の津波堆積物が貞観津波に相当すると考えられました。貞観津波襲来当時の海岸線の位置が現在とほぼ同じであると仮定した場合、貞観津波の遡上距離は少なくとも1.5 kmと推定されました。
小高区では、堆積物試料に含まれる珪藻化石を観察し、津波が襲来した前後における環境変化を推定しました。特に、貞観の津波堆積物が堆積する前後に注目すると、貞観の津波堆積物より下では淡水生種が優占するのに対し、津波堆積物の上では汽水生種や汽水~海水生種が増加するようになります。
貞観津波相当層の上下におけるこのような変化は、砂層の堆積と同時に海水の影響が大きくなったことを示しています。海水の影響が強くなる原因は、世界的な海面上昇の可能性も否定できませんが、津波襲来の前後で群集が変化していることを考えると、地震による地殻変動によって沈水したと考えるほうが自然です。
この仮説が正しければ、貞観の津波は遠くに波源のある「遠地津波」と呼ばれるものではなく、南相馬市付近に波源がある、つまり日本海溝で発生したものと考えることができます。
貞観津波を起こした巨大地震を考える
貞観地震がどのような地震であったかを復元するため、地震時の海底の隆起・沈降を再現する様々な地震の断層モデルをコンピューター上で検討しました。
各モデルから計算される津波浸水域を、地質調査により発見された津波堆積物の分布範囲と比較し、どの断層モデルが貞観地震として適切かを考えました。貞観津波を発生させた地震の断層モデルとしては、以下のものを考えました。
- 昭和三陸地震(1933 年)と同様な海溝外側のプレート内正断層地震
- 明治三陸地震(1896 年)と同様な海溝内側斜面に沿った津波地震
- 仙台湾内の断層による地震
- プレート間地震
このうち、プレート内正断層地震については、走向は日本海溝に平行とし、西に傾く断層面を仮定しました。断層の長さ200 km、幅50 km、上端が日本海溝のやや東側の海底(深さ0 km)に位置し、すべり量は5 mとしました。
津波地震については、プレート境界浅部の普段は地震活動が低いところがすべることによって発生すると仮定し、沈み込む太平洋プレートに沿う逆断層とし、断層の長さは200 km、幅は50 km(深さは海底から15 km まで)、すべり量は5 mとしました。
仙台湾内の断層については、嵯峨渓逆断層群に沿って長さ40 km、幅20 km、すべり量5 mの逆断層を仮定しました。
プレート間地震については、プレート境界の深さ15~50 km程度の地震発生帯における断層運動と考えられていることから、走向を日本海溝に平行し、断層上端の深さを15 km、31 kmの二通り、断層の幅を50 km、100 kmの二通りを検討しました。
これらのモデルについては、断層の長さは200 km、すべり量は5 mとしました。この他、断層の長さを300 kmとしたもの、断層の長さ及び幅を100 km、すべり量を10 mとしたもの、断層の長さ200 km、幅100 kmですべり量を7 mとしたものなども試しました。これらの地震の規模は、Mw 8.1~8.4程度となります(仙台湾内の活断層のみMw 7.3)。
こうした断層モデルの検討の結果、断層の長さ200 km、幅100 km、すべり量7 mのプレート間地震のモデル(Mw 8.4)の時に津波堆積物の分布限界と計算上の浸水範囲が一致することがわかりました。
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残された課題
2011年東北地方太平洋沖地震が発生した後、産業技術総合研究所による貞観津波の研究に注目が集まりました。そのなかで「貞観と2011年の地震はどちらが大きいのか?」ということが、しばしば議論されました。実は、この問題はまだ解決できていません。
なぜなら、津波堆積物の分布範囲は必ずしも津波の浸水域を正確に示すわけではなく、津波堆積物の分布を基に構築した断層モデルは、津波の規模を過小評価している可能性があるからです。
以前から指摘されていることですが、津波の遡上は、津波堆積物の分布域より内陸に達することが多くあります。津波の流れる速さは遡上するに従って緩やかになり、やがて土砂を運ぶことができなくなります。あるいは、海岸から運搬された土砂供給量が少なければ、流れの速さは十分でも土砂が運搬されなくなります。そのため土砂運搬の限界と、波が達する限界が必ずしも一致しないのです。
津波の遡上限界と津波堆積物の分布範囲の違いは、仙台平野のような低平な場所ほど顕著であると考えられています。この分布の違いを説明できるモデルは未だ確立されておらず、議論の余地が残されています。
また、2011年の一つ前の超巨大地震イベントが貞観地震と考えて良いのか、という問題もあります。
震災の後、歴史記録や地層の記録が見直され、1454年にも大きな地震・津波が起きていたことが指摘されました。享徳地震と呼ばれるこの地震は、破壊領域が貞観地震と重複していることが指摘されています。
また、1611年慶長津波は、日本海溝で発生したと考えられていますが、その波源に関しては千島海溝とする説もあり、決着がついたとは言えません。
これらの地震のひとつひとつを解明することにより、日本海溝で過去に何が起きていたかを初めて理解することができます。
教訓を忘れないために
東北地方太平洋沖地震と貞観地震に関する研究は、地層から未知の地震を調べることの重要性を再確認させてくれました。この教訓を忘れないため、貞観の津波堆積物をはぎ取り標本として残し、産業技術総合研究所の地質標本館に常設展示しています。また、セミナーでの使用や他機関での展示にも活用し、研究の意義の普及に役立てています。
引用文献
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