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JRの各駅にはその付近の名所旧跡の案内掲示があります。官舎最寄の東北本線東仙台駅にはただ一つ、「蒙古の碑」があるだけです。何でこんなところにと疑問に思いつつも探訪する機会もありませんでしたが、ついに先日行ってまいりましたのでその顛末を以下に少々ご紹介いたしましょう。
東仙台駅をおりて利府街道に交差して、右に折れて十数分行くと、左手に第三代仙台藩主綱宗の菩提寺である善応寺(燕沢二町目3−1)の細い参道が見えてきます(やや分 かりにくい「善応寺入り口」の表示があります)。そこを100mほど詰めて境内に入ると本堂左手前にりっぱな石碑が立っており、近くに「蒙古の碑」の看板があります。碑の高 さは約1.6m、最大幅約0.9mです(写真1)。表には上部に円が描かれて中に梵字の「ラ」が刻まれています。この字を見るだけで凡夫も成仏し、迷える魂も救われるそうで す。筆者も救われました。ありがたいことです。皆さんもどうでしょう。
写真1 「蒙古の碑」(表面)(善応寺)
さて、その下には四角で囲まれた28字の本文が4行にわたって刻まれています。最後の行は、「弘安第五天」の年号(「天」は「年」の異体字。1282年のこと)で、2回目の元寇の翌年にあたります。あと月日にあたる言葉と製作者清俊の名が読めます。清俊は鎌倉円覚寺の開祖である無学祖元の弟子と言われています 。碑文は、祖元(宋からの帰化僧)が、九州博多で戦死した蒙古兵を弔うために作った供養文と言われています。非常に変体的な略字が多く古来いくつもの解釈がされましたがいまだに定説が無いようです。さて、里人たちがこれとは無関係に功徳を得るために経文を一字ずつ小石に書写して地中に埋めその上に石塔を立 てる信仰習俗があり、これを「一字一石塔」と称します。「蒙古碑」の裏面には、「一字一石塔」として利用したことが書かれています(写真2)。一種のリユースということになります。他にも「仏足石」や石灰岩製の山形の見事な景石や横穴古墳群などがあります。
写真2 「蒙古の碑」(裏面の「一字一石塔」)(善応寺)
さてさて、この「蒙古碑」は初めからここにあったわけではありません。利府街道に戻ってさらに東に行くと右手に宮城三十三観音の第6番礼所である牧嶋観音堂があります。 「蒙古碑」はここに建てられていたのですが、昭和16年(1941)に当時の蒙古聯合自治政府主席だった徳王が視察に来るというので、狭くお粗末だった観音堂敷地から同年 2月26 日に善応寺境内に移転したのです(そのとき徳王が、碑の傍らに記念植樹した松ノ木が今も善応寺境内に茂っています)。そこで、何もなくなった観音堂の横には、なんと昭和 55年(1980)に「蒙古の碑跡」という石碑が建てられたのです(写真3)。日本人の郷土愛には並々ならぬものがありますね。
写真3 「蒙古の碑跡」の石碑(牧嶋観音堂)
ところで、「蒙古碑」は、さらに初めからここにあったわけではありません。享保八年(1723)に近くの安養寺跡あるいは燕沢寺跡に通ずる土中から(諸説あり)掘り出されたものだそうです。いつのころからか観音堂に移されたそうです。さらに、掘り出される前はどこにあったのでしょうか。筆者は知りません。誰も 知りません。
仙台には、弘安の年号があるため俗に「モクリコクリの碑」と称される「蒙古の碑」(ただし板碑が多い)が、他に5箇所あります。来迎寺(青葉区八幡五丁目)に2基、仙 台大神宮(青葉区片平一丁目)に1基、そして東北大学付属植物園(青葉区川内)に2基です。御用とお急ぎでない方はどうぞ。
(東北センター所長 加藤 碵一 記)
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