ポイント
- 受胎に有利な精子の選別技術を牛の人工授精向けに最適化して、簡易な装置で量産体制を確立
- 選別した精子を凍結ストロー容器で提供し、今までと変わらない繁殖作業で高い受胎率を確認
- 繁殖性改善を通じた畜産の生産性向上への貢献に期待
概要
-牛の人工授精に最適化することで量産技術の単純さと高い繁殖成績を両立-
国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という) 製造技術研究部門【研究部門長 市川 直樹】生物化学プロセス研究グループ 山下 健一 研究グループ長、永田 マリアポーシャ 元研究員と、佐賀県畜産試験場【場長 田島 浩和】、森永酪農販売株式会社【代表取締役 奥田 和綱】、独立行政法人 家畜改良センター【理事長 入江 正和】、国立大学法人 佐賀大学【学長 兒玉 浩明】は、牛の繁殖における人工授精時の受胎率を向上させる精液の前処理技術を開発した。さらに精液の大量生産と、規格流通形態であるストロー型容器に封入した状態での凍結保存を行い、牛に人工授精を行う実証実験により高い受胎率を確認した。
これまでに、人工授精や体外受精など用途ごとに受胎に有利な精子を泳ぎの形で見分けることができることを報告していた。今回、牛の人工授精に的を絞り、生産工程の簡便さを重視して、前回製作したマイクロ流路をスケールアップして、大量生産技術を開発した。また、既存の繁殖方法と同じく凍結ストロー状態で提供することができる精液の量を確保することで、繁殖の現場に導入しやすくした。なお、この技術の詳細は、近日中に畜産学分野の専門誌Journal of Animal Science and Biotechnologyにオンライン掲載される。
開発の社会的背景
日本では、家畜用の牛の繁殖の多くが人工授精によって行われている。人工授精を行う際には、ストロー状の容器に封入され凍結保存されていた精液を解凍(融解)し、雌牛への人工授精に適した時期に子宮内へ注入する。近年、牛では人工授精の受胎率が低下傾向にあり、改善のため雌牛の体調や飼育の管理も含め、幅広い角度からさまざまな試験研究が行われている。一方、雄側の対応である精液・精子の改良については、凍結保存方法が確立した1960年代頃から大きくは変わっていない。
牛など家畜の繁殖では一般に死んだ精子を取り除くことなく、運動性や寿命の異なる精子が混在する凍結-融解精液が用いられている。人間の不妊治療では運動性を失ったり死んだりした精子を取り除き、活発な運動をする精子を集めるといった精液・精子の前処理が行われているが、このような手間のかかる前処理は畜産の繁殖の現場作業としては負担となる。精液・精子の質を改善した上で、従来と同じストローに封入・凍結状態で提供することで、繁殖の現場作業を今までと変わらないものとすることが、普及を見越した上で重要とされている。
研究の経緯
産総研は、人工知能やIoT技術による管理や省力化など、家畜の生涯全体を対象に畜産業の生産性向上や働き方改革を実現する技術開発に取り組んできた。これまでに産総研は、繁殖を対象とし、特に雄(精子・精液)側に対応する技術として、人工授精に使用できる運動性精子を多数捕集する技術を開発するとともに、佐賀県畜産試験場、森永酪農販売株式会社、独立行政法人家畜改良センター、国立大学法人佐賀大学などと共同で、精子の泳ぎの形と人工授精のタイミングによる受胎性の関係などをフィールドで実証実験した(2018年3月20日産総研プレス発表)。今回、そこで得られた知見をもとに「受胎に有利な精子」を、簡便に捕集し、凍結ストロー封入状態で大量生産する技術の開発に取り組んだ。
なお、この研究開発は、独立行政法人 日本学術振興会の科学研究費助成事業 基盤研究(B)の研究課題「流体操作技術による新たな精子選別技術の開発と実証試験」、農林水産省の委託事業「委託プロジェクト研究・繁殖性の改善による家畜の生涯生産性向上技術の開発」による支援を受けて行った。
研究の内容
日本では、家畜用の牛の繁殖のほとんどが人工授精により行われているが、慣習的に雌の発情行動の発見から半日後を目安として人工授精のタイミングとする「AMPM法」と呼ばれる時間ルールに従って行われている。これまでに、産総研ではマイクロ流体技術を用いて運動性精子を大量に捕集する技術や泳ぎの形で選別する技術を開発するとともに、フィールドでの人工授精に用いた精子の泳ぎの形と、受胎/不受胎の結果の相関を調査し、AMPM法のタイミングでは、まっすぐ泳ぐ精子よりも蛇行しながら泳ぐ精子の方が、受胎しやすい傾向があることを発表していた。
今回、高い運動性を持つ精子、特に蛇行しながら泳ぐ精子に焦点を絞り、種雄牛の射出精液から簡便に大量捕集する技術を開発した。この開発は、化学工学のスケールアップの考え方を基本とした。小型の装置を大きくする際に、相似性を確保するため無次元数が同一になるように設計することは、スケールアップの基本である。今回用いた運動性精子の捕集技術は、流れによって運動性精子を誘導するもので、流れ場の状態を表す無次元数であるレイノルズ数に着目した。レイノルズ数が同一になるような捕集容器の設計の可能性はさまざまに考えられるが、今回は特に種雄牛から射出精液を採取してその場で処理することを想定して、できるだけ簡便な形態とするため、槽型の捕集容器とした。また、設計にあたり、蛇行しながら泳ぐ精子の完全分離よりも操作の簡便さを重要視した。
図1に今回開発した運動性精子捕集装置の概略を示す。この装置は、精子が流れをさかのぼろうとする性質(流走性)と至適な温度の場所へ移動しようとする性質(温度走性)を利用している。容器は上部広口型で、液面付近の撹拌子によって溶液全体を回転させる。この撹拌子は、回転流れが乱れないように設計し、3Dプリンターで作製した。また、容器の上部は30 ℃、下部は25 ℃となるような温度勾配を付けてあるため、この装置により、容器の上部ほど、回転流れは速く至適温度に近い状態を定常的に作り出すことができる。
種雄牛から採取された射出精液を容器に入れ、回転流れを作り出すと、マイクロ流路内で精子が流れをさかのぼって移動するのと同様に、運動性精子が回転流れをさかのぼって容器上部へと移動する(図2)。
およそ30分間の操作の後、容器の上半分の精液を取り出し、従来のストロー詰めや凍結保存の工程によって、繁殖用精液凍結ストローを生産した。なお今回は、国内で一般的な封入精子数である2500万-3000万の精子数の凍結ストローを生産した。
この繁殖用精液凍結ストローを用いて、農場で人工授精を行った結果を表1に示す。この試験は、一般に受胎率が低下するとされる夏季に行った。通算の受胎率は92 %(12/13)と高い受胎率が得られた。また、長期不受胎牛という従来の繁殖方法では受胎に至らなかった牛でも良好な受胎を得たことが特徴的であった。
表1 今回開発した精液凍結ストローによる人工授精試験の結果 | ||
被授精牛 | 不受胎履歴 | 妊娠鑑定 |
---|---|---|
黒毛和種#1 | なし | 受胎 |
黒毛和種#2 | なし | 受胎 |
黒毛和種#3 | なし | 受胎 |
黒毛和種#4 | なし | 受胎 |
ホルスタイン種#1 | 2回受精卵移植+2回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#2 | 2回受精卵移植+3回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#3 | 2回人工授精 | 不受胎 |
3回人工授精(上記の1回目を含む) | 受胎 | |
ホルスタイン種#4 | 2回受精卵移植+2回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#5 | 2回受精卵移植+3回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#6 | 4回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#7 | 2回受精卵移植+2回人工授精 | 受胎 |
ホルスタイン種#8 | 4回人工授精 | 受胎 |
被授精牛は、すべて未経産牛。 比較として、当該種雄牛の通常凍結精液での受胎率は54 %であった。 |
今後の予定
今後はこの新しい製法による精液凍結ストローでの人工授精を続けデータの蓄積を図るとともに、体内受精卵の生産にも試験を拡大し、有効性を検証した上で、普及を目指す。
用語の説明
- 人工授精
- 繁殖を目的として、雌牛の生殖器官内(典型的には子宮内)へ精液を注入すること。体外受精と比較して、はるかに多数の精子数が必要である。[参照元へ戻る]
- 受胎率
- 人工授精などの繁殖を行った回数に対して、妊娠した回数の割合。[参照元へ戻る]
- AMPM法
- 雌の発情行動を確認したのが午前中であればその日の夕方に、午後であれば翌日朝に人工授精を行う時間的な決まり事。発情発見から8時間-24時間の間が人工授精のタイミングとして用いられている。なお、発情行動とは、雌牛が、排卵近くなどの繁殖適期になると示す特徴的な行動のこと。家畜では、基本的にこの行動を捉えて繁殖作業が行われている。[参照元へ戻る]
- マイクロ流体(マイクロ流路)
- 典型的には、数百マイクロメートル程度の太さを持つ流路。このような細い流路を流れる液体は、層流という状態の流れとなり、流れの精密な制御が可能になる。[参照元へ戻る]
- 無次元数
- 単位を持たない(次元が「1」)量のこと。物理量を掛けたり割ったりして、次元のない数を得ることができ、さまざまな現象の特徴を示す量として用いられる。[参照元へ戻る]
- レイノルズ数
- 気体や液体について、流れの滑らかさを示す指標値であり、慣性力と粘性力の比で表される量のこと。無次元数の一種。[参照元へ戻る]
- 長期不受胎牛
- 繁殖作業に連続3回以上失敗した牛のことで、治療や繁殖断念の判断にはこの3回が目安とされる。[参照元へ戻る]