本ニュースをより多くの方々に読んでいただくため肩のこらないお話を少々。東北センターのある仙台の地の知られざるあれこれから始めましょう。
 近頃の相撲は、魅力のある力士が乏しいせいかなんとなく面白みに欠けてきた気がします。それはともかく、古今無双の大横綱といえば江戸時代の谷風でしょう。本名は金子与四郎といい、寛延三年(1750)に、現在の仙台市若林区霞ノ目屋敷に生まれました。匂当台公園に実物大の立像があります(写真1)。身長189cm、体重169kgで、実に力士らしい体格です。伊勢の海部屋に所属し、明和六年(1769) 「達ヶ関」の四股名で初土俵を踏みました。当時は、実力は無いが見栄えのよい大男を大関に据えて見世物的な客寄せを図り、これを「看板大関」と称しました。彼は最初はこの看板大関でしたが、稽古も十分積み実力を現して安永五年(1776)には真の小結として谷風梶之助の四股名を襲名し、寛政元年(1789)横綱免許を受け、相撲人気を取り戻す大活躍をしました。横綱時の勝率は96.1%、優勝回数21回という驚くべきものでした。↓
だろうかともいわれています。やがて8月8日の朝、元気な男の子が誕生しました。これが後に「わしが国さで見せたいものは昔谷風、今伊達模様」と里謡にうたわれた寛政の名力士、谷風の誕生譚です。しかしこの種の話によくあるように異説も多々あります。母親が仁王門を通り過ぎるたびに石が盛り上がりついに牛になった(その後、また石塊になって今日に伝わっている)とか、谷風が5歳のときにこの牛石が邪魔なので、何度も力を入れてついに動かしてしまったなどとも言い伝えられています。社務所で聞くところによると、2つに割れて片方は行方不明になったそうです。もちろん転石なので、由来は分かりませんが周囲に分布する新第三紀中新世のごく普通の輝石安山岩です(写真2)。
 その後、谷風が晴れの郷土入りをした際、牛石を感慨深げに眺めつつ、「おかげで谷風は、このように力持ちになりました」と傍にあった石を右足で踏みつけたところ、足跡がへこんだといいます。社務所の左側奥に口をすすいだり手を洗ったりするための石の蹲(つくばい)があります。岩質は、「牛石」と同じです。手水をためておく孔が上面に刻まれており、これが谷風の足型であるという説と側面のへこみが足跡だとする説があります。上面の孔は人工的にノミで刻まれたもので、側面のへこみはなんらかの侵食跡です(写真3)。いずれにしてもお話ですので、野暮を言うのはこれくらいにして今回はお開きにしましょう。
 

所長エッセイ その1

谷風と石

写真1 谷風力士像(仙台市・勾当台公園)
 さて、谷風ゆかりの石が2つもここ仙台市の陸奥国分寺(仙台市若林区)にあります。この寺は天平13年(741) 聖武天皇の勅願により建立された日本最北の国分寺です。現在では、2月に行われる柴灯大護摩、いわゆる火渡りの祭典で有名です。石の1つは「谷風牛石」で、もう1つは、「谷風踏み石」です。寛延三年(1750)夏、毎夜丑の刻になると薬師堂にお参りして立派な男の子が授かりますようにと一心に祈願をこめる一人の女性がいたそうです。満願の夜に仁王門をくぐろうとすると、足元に大きな牛が長々と横たわっており、先に進むのを妨げていました。しかし、勇を鼓して牛の背を乗り越えて薬師堂へお参りし、満願を果しました。実はこの牛、仁王門の前にあった大石だったのですが、その女性の信仰心の篤さを試すため、お薬師様が姿を変えて現れたの
写真2 谷風牛石(仙台市・陸奥国分寺)
写真3 谷風踏み石(仙台市・陸奥国分寺)
(東北センター所長 加藤 碵一 記)
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