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シャルロット・ペリアンと日本

 現在、展覧会「シャルロット・ペリアンと日本」が、鎌倉・広島・東京で巡回中です。その展覧会に、産総研東北センターが所蔵するペリアンの写真を貸し出しています。
 そこで、伝説のデザイナー シャルロット・ペリアンに焦点をあててみました。
 日本の工業デザイン史をたどると、商工省(現在の経産省)「工藝指導所」という名にたどりつきます。工藝指導所は1928(昭和3)年、各地工藝物産の改善とその輸出振興を目的に仙台市(現在の宮城野区五輪)に創設されました。仙台が近代デザイン発祥の地と呼ばれる所以であり、これが後に東北工業技術試験所となり、産総研東北センターとなります。
 指導所の実際の業務は、調査研究・試験鑑定・商品見本の試作・製作加工図案調整など多岐にわたっていました。初代所長の国井喜太郎は「工藝の科学化、大衆化、輸出化」を目指しました。当時の工藝試作品は現在も産総研東北センターで保管・展示しています。
 商工省は1933(昭和8)年ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)を招き、タウトは所員たちに「見る工藝から、使う工藝へ」と機能主義を教えました。
 次いで1940(昭和15)年に招聘されたのが、パリで活躍していたシャルロット・ペリアン(1903-1999)です。建築家ル・コルビュジエのアトリエでペリアンとともに働き親交を深めた坂倉準三が、帰国後、彼女を推薦したのでした。戦火が広がり渡航までの準備は難航しましたが、電報と手紙のやりとりだけを頼りにペリアンは日本へと旅立ちました。
 この年の12月、工藝指導所東京本所が新設され、仙台の指導所は東北支所と改称されますが、 その直前にペリアンは仙台を訪れています。東北地方を巡った後に工藝指導所に戻り、所員たちと座談会を行ったときの写真が、今回の展覧会で展示されています。
 この座談会の様子を記録した「工藝ニュース第10巻第1号」によれば、所員たちはペリアンを『マダム』と呼び、タウトに学んだ機能主義を実践するための助言を求めました。
 当時は工業用に需要の多い材料は思うように手に入らなくなりつつありました。そのため、竹などの手近な材料で作れる工藝が復活してきており、この席でペリアンは「今のような生産工藝の進歩が停滞するときには、従来の技術を一度ゆっくり振り返ってみる必要がある」と述べています。彼女自身、後に日本の竹を使った作品を残しています。
Photo

シャルロット・ペリアン、 銚子海岸にて 1954年
Photo:Jacques Martin

Copyright Archives
Charlotte Perriand-
ADAGP,Paris&SPDA,
Tokyo,2012



Photo

シャルロット・ペリアン
《竹製シェーズ・ロング》
1941年/1985年再制作、Cassina

Copyright Archives Charlotte Perriand-ADAGP,Paris&SPDA,
(4ページに続く)
 ペリアンが乗った白山丸がマルセイユを出港したのは1940年6月、パリ陥落の翌日でした。
 ペリアンは一等船室で、民俗学の研究をしていた松平斉光男爵と出会います。二等船室には戦乱のパリから逃れるため、猪熊弦一郎、荻須高徳、岡本太郎ら大勢の日本人藝術家たちも乗っていました。
 船が喜望峰をまわり上海を経由して神戸港に入港したのは8月のことでした。

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