詳細リスク評価書電子版への期待

京都大学・東北大学 名誉教授
(財)京都工場保健会 理事


池田 正之


化学物質リスク管理研究センターでは多くのプロジェクトが並行して推進されて来たが、私個人が直接関心を持つ分野では「詳細リスク評価書シリーズ」・「リスク評価の知恵袋シリーズ」の刊行がある。主要物質のレビューを収めた計25巻と知恵袋計3巻が順次丸善から発行される(既刊計15巻)と伺っている。この大きな成果にまず心からのお喜びを申し上げたい。知恵袋シリーズは例えば不確実性の問題を取り上げるなど貴重な刊行物であるがここでは詳細リスク評価書を中心に考えてみる。

よく知られているように国外では例えばWHO/ILO/UNEPからはEnvironmental Health Criteria、またUS ATSDR からはToxicological Profileとしてそれぞれ多数の物質についての総説が刊行されている。ヒト発がんの領域ではWHO/IARCからIARC Monogr. Eval. Carc. Risk Hum.がまもなく100巻刊行を迎えようとしている。化審法に関連してはいわゆる「緑本」・「茶本」(いずれも電子版化されている)・環境リスク評価が国内で発行され、また産業保健領域(従って職業人の健康情報中心)では日本産業衛生学会・ACGIH (アメリカ)・DFG (ドイツ)からそれぞれ(産業保健上の)許容濃度値設定理由が発表されている。

これらの総説は公開されており、当然国内でも入手可能であるが、有害性評価やヒト健康情報が中心で生態毒性やリスク評価には及ばない総説もある。これに対してこの評価書シリーズでは環境評価・有害性評価に基くリスク評価に焦点を置いた構成が組まれている点に注目したい。近く英語版の出版も予定されている由で、記述内容水準の高さは国際的にも明らかになると期待される。

我が国で既存化学物質として登録されている物質は約2万件にのぼる。毒性・生態毒性などの安全性情報の整備は化学物質をヒトの健康・生態系保全の両面にわたって安全に活用するための基本条件の一つであるが、情報は比較的少数の物質に偏在し、多くの物質については不十分ないし欠除している。

この情報ギャップを補うためOECD/ICCAではHPVプログラムが、またアメリカでは US Challenge Program が展開されている。我が国の場合ジャパン チャレンジ プログラムの略称のもとに国内での製造・輸入量が1000トン以上で国外での情報収集対象になっていない約140物質を対象として関連企業が(スポンサーとして)自主的に安全性情報を収集・提供するプロジェクトが2005年6月に立ち上げられた。このうちすでに約6割の物質についてスポンサー登録が得られている。

また EU ではREACH方式により、企業が安全性情報を収集・登録しなければその化学物質を上市出来ない仕組みを定めた。さらに化学構造と生体影響の間の構造活性相関の可能性に注目し、生態毒性のみならずヒト健康を視野に置いた毒性評価についても毒性未知物質について既知物質からの内挿・外挿により毒性を類推する試みがある。我が国ではごく最近数年にまたがる大きなプロジェクトが始められた。

このような体制が全既開発国レベルで機能し始めると、とりわけ主要化学物質に関する安全性情報の提供は従来よりも著しく加速されると期待される。これらの情報を国内で展開されている初期環境調査・詳細環境調査の結果と組み合わせ、最も有用な形で社会に提供する作業は情報供給増加・情報需要増大の両面に支えられてその重要性を増す。

安全性情報を収集・要約する作業には莫大な努力を要する。MEDLINE・PUBMED・TOXILINEに代表される情報検索システムの発達のおかげで検索自体は日常的な作業になり、論文コピーの入手も容易になった。さらに多くの国際誌では電子版を発行するのみならず、過去に発行した冊子版に遡って電子版化している。一層新しい形態としては電子版のみの open journal が刊行され始めている。

しかし収集した情報を取捨選択するには従来に増して識見に基づく判断力を必要とする。既存の総説情報からは「手堅さ」は得られても、その情報が収集された時期と総説が公開(多くは発行の形をとる)される時点との間には必然的に何年かの時間が経過しており、最新情報からは常に「遅れを取り続ける」ことになる。

安全性情報はその性格上「生鮮食品」的な側面を持っており、常に最新の情報を活用しやすい形で提供することが求められる。単行本出版という形態は「確かさ」の点では極めて優れていても急速な展開には対応できない憾みがある。電子版化し、常に改訂を続けて最も新鮮な情報を提供すること(上記のように、これを支える改訂作業は大変であるにしても)が可能な時期に来ている。

ちなみに電子版には当該文書内での必要箇所を検索できる大きな長所もある。化学物質リスク管理研究センターは2008年3月末をもって解散し、さらに大きな組織に生まれ変わると承っている。このプロジェクトについてもシリーズ完結を言葉通りの「中締め」とし、今後新たな形態をとって一層発展していくことを期待したい。


化学物質リスク管理研究センター

独立行政法人 産業技術総合研究所