− 詳細リスク評価書 トリブチルスズ(TBT) −
堀口 文男


◆はじめに 

トリブチルスズ(TBT)は、生物に対する防汚効果とその持続期間、製造の簡易さから、船底への生物付着防汚物質として船底塗料に利用されていた。しかし、船底に付着する生物以外の海洋生物にも有害な影響を及ぼしていることが次第に明らかとなり、世界各国において諸規制が施行された。それ以後、TBTの環境水中濃度は低下してきているが、環境水中のTBT濃度の低下が、はたして海洋生物を保護するに十分なレベルにまでリスクを低減しているのかどうかは、明らかにされていない。本研究では、東京湾におけるTBTの排出と挙動を数値モデルで再現し、モデル計算より算出された底層での溶存態TBT濃度を用いてマガキとアサリに対するリスクを評価した(図1)。

TBTの東京湾への排出と挙動

図1.TBTの東京湾への排出と挙動



◆TBT排出源の推定 

TBTの使用形態や排出源を推定するにあたり、TBTを含む有機スズ化合物全般の物性と用途も考慮に入れて網羅的に排出源とその寄与を調査して東京湾でのTBT排出源の検討を行った。既往文献から整理したTBTの排出源としては、1)移動商船と商業港、2)漁港とマリーナ、3)ドックと造船所、4)火力・原子力発電所等の冷却施設、5)養殖場と定置網、6)不特定多数のTBT取り扱い施設、7)港湾内の底泥(二次汚染源)が挙げられる。

これらの排出源から、移動商船の航路と入港・停泊する場所で、船底塗料の影響が大きいと考えられる商業港を選択し、数値モデルに組み込み、 1)日本有数の海上交通の過密海域であり、商船の入港隻数が多いことから負荷が高いと推定され、2)商船の航路を特定でき、3)数値モデルで定量的かつ時系列的な評価を実施する上で不可欠な統計データの入手が可能であることから「東京湾」を対象海域とし、TBTのリスク評価を実施した。

環境水中濃度分布の推定

1970年代にTBTの使用が急激に増加して以来、TBTはマリーナや造船所、ドック、航路、防汚剤が含まれる塗料で処理された漁網や養殖施設、冷却水システムなどの周辺の海水、堆積物、生体から検出されている。しかし、各国における諸規制の効果を反映して、TBTの環境中及び生体中濃度は減少傾向にあることがモニタリング調査により確認されている。

TBTの環境中濃度の推計は、CRMで開発した化学物質運命予測モデルを使用した。このモデルは、流動場と懸濁物質の分布を利用し、TBT濃度を計算できる。汚染源は移動商船の航路および入港・停泊する場所であり,船底からの溶出量は規制以前の1990年を想定した。

◆有害性評価

環境中の生物に対する化学物質のリスクは個体群または生態系の存続を評価エンドポイントと考えるべきであるが、評価対象海域に生息していてTBTに敏感である生物種を選定して生態リスク評価とした。また商品価値の高い水産生物種の生物量の維持を評価エンドポイントに設定してリスク評価を行った。

対象生物は対象海域に生息してTBTに最も感受性が高く生物種として重要なマガキと対象海域の主要な漁業資源であるアサリを選定した。

評価のエンドポイントは、マガキが石灰沈着異常、アサリが成長阻害とした。アサリについては、慢性毒性試験の報告例はないので、近似種の慢性毒性データを考慮した。また、毒性試験値についてはKlimisch et al.1)に従ってデータの信頼性についても評価した。

評価に用いる無影響濃度(NOEC)は、それぞれの最低影響濃度(LOEC)の文献値である1.マガキ:2 ng TBTF/L、2.アサリ:10 ng TBTO/Lから、ビノスガイでのLOEC/ NOEC比を基に推定した(表1)。推定されたNOECは、それぞれTBT基として1.0 ng/L、4.1 ng/Lであった。

表1.評価エンドポイントの設定に採用した毒性データの信頼性

評価エンドポイントの設定に採用した毒性データの信頼性
TBTF: フッ化トリブチルスズ (Tri-butyl tin Fluoride)
TBTO: ビス(トリブチルスズ)=オキシド(Tri-butyl tin oxide)

◆リスク評価

対象生物に対するTBTのリスクは、無影響濃度(NOEC)/推定環境中濃度(EEC)で定義される暴露マージン法(MOE法)で評価した。MOE値が不確実性係数(UF; Uncertainty Factor)より大きければリスクなし、UF以下であればリスクありと評価される。

リスクは、MOE法で得られた値とUFとを比較して評価する。ここではマガキ、アサリ(近似種)のNOECを用いてMOEを算出しているので、共にUF=1とした。

1990年(規制前)のアサリのMOE値については、荒川河口付近のMOEが最も小さく、年間を通じて1以下となった(図2)。マガキのMOE値の変動はアサリと同様の傾向がみられるが、年間を通じて1以下であるため、生息域全域で石灰沈着異常になる可能性があると考えられる。

アサリとマガキに対するリスク評価(1990年平均)
図2.アサリとマガキに対するリスク評価(1990年平均)

2007年のアサリのMOE値は1より大きくなり、成長阻害を起こす可能性は低いと予測される(図3)。またマガキも1以下のMOE値は認められず、石灰沈着異常を起こす可能性はなくなるであろうと予測される。

アサリとマガキに対するリスク評価(2007年平均) (MOE値が1以下であればリスクあり)
図3.アサリとマガキに対するリスク評価(2007年平均)
(MOE値が1以下であればリスクあり)


◆リスク管理と対策費用推計

各国のリスク管理対策は、フランスと米国が船長25 m未満の船舶へのTBT塗料の適用を規制し(フランス:禁止、米国:溶出速度を4 μg/cm2/day未満に設定)、英国が水質安全基準値(2 ng/L)の設定と小型船での使用を禁止した。ヨーロッパ、アジア諸国でTBTの規制が実施され、近年では環境水中のTBT濃度は低下した。我が国でも1992年からのTBTの自主規制により排出の削減を実施している。国際海事機関(International Maritime Organization)のTBT規制の条約が発効すると2008年以降TBTの使用は禁止されることから、環境水中のTBT濃度がさらに低下すると期待され、リスク管理対策に有効であると考えられる。

TBT塗料の使用禁止を想定したコスト解析の事例には船底塗料を使用しないケースを対象とした非現実的な報告や、非スズ(Tin Free)船底塗料(TF塗料)には加水分解型と水和型があるにもかかわらず、その種類が明確になっていない報告がある。Damodaran et al. 4)により報告されているこれらを明確にした事例を参考にして2004年時点のTF塗料の動向について、海運関係と大型船舶に使用するTF塗料を製造している塗料会社に対してヒアリング調査を実施し、対策費用の推計を行った。

ヒアリング調査からコストの増加は塗料代のみと考えられる。TBT塗料と加水分解型TF塗料の価格差について試算したところ、TF塗料が、1 m2あたりの単価の価格差として約123〜134円高くなっている。我が国の海運関係会社が管理している大型船舶(コンテナ船)についてみると1隻あたりの塗料代の差はTF塗料が150万円(幾何平均値)前後高くなり、日本で登録されているコンテナ船全体の1回(2.5年)の船底塗料費は、TF塗料がTBT塗料より約3億円(208隻×150万円)、1年で約1.25億円高くなる結果となった。

◆まとめ

本リスク評価は、既往文献に報告されているTBTの暴露レベルと生物への影響を要約した。また、環境水中におけるTBT濃度を予測するモデル開発について述べるとともに、既往文献と現地調査から取得したデータを用いて、開発したモデルの検証も行った。有害性評価ではマガキとアサリを対象生物に選定し、評価エンドポイントを決定した。リスク評価方法はEECとNOECの比をとるMOE法を採用し、UFと比較した。1990年は両種共にリスクのある結果となったが、2007年にはリスクはなくなると予測された。

BT代替品については、各メーカーで現在開発中の塗料もあり、その有害影響に関し利用できる情報がほとんどないのが現状である。したがって、TBT代替品の機能と環境影響の評価を行い、代替品の毒性、生物蓄積性、代替品に交換した場合の経済的利害等、船底塗料が自然環境及び経済環境に及ぼす効果についての検討が今後の課題である。

参考文献〉
1) Klimisch HJ, Andreae M, Tillmann U (1997). A systematic approach for evaluating the quality of experimental toxicological and ecotoxicological data. Regulatory Toxicology and Pharmacology 25: 1-5.
2) Chagot D, Alzieu C, Sanjuan J, Grizel H (1990). Sublethal and histopathological effects of trace levels of tributyltin fluoride on adult oysters Crassostrea gigs. Aquatic Living Resources 3 : 121-130.
3) Laughlin RB Jr, Gustafson R, Pendoley P (1988). Chronicembryo-larval toxicity of tributyltin (TBT) to the hard shell clam Mercenaria mercenaria. Marine Ecology-Progress Series48: 29-36. 
4) Damodaran N, Toll J, Pendleton M, Mulligan C, DeForest D,Kluck M, Felmy J.(1998). Cost- benefit analysis of TBTself-polishing copolymer paints and tin-free alternatives foruse on deep-sea vessels. Princeton Economic Research, Inc.& Parametrix, Inc. USA.

*「詳細リスク評価書シリーズ8トリブチルスズ」は、丸善株式会社から出版されています。また、概要版をCRMのホームページで公開しています。http://unit.aist.go.jp/crm/ 

*TBT詳細リスク評価書は、 (独)新エネルギー・産業技術総合開発機構からの受託研究「化学物質総合管理プログラム・化学物質リスク評価及びリスク評価手法の開発プロジェクト」と産総研独自の研究資金で行われてきた研究の成果です。


化学物質リスク管理研究センター

独立行政法人 産業技術総合研究所