3.ガバナンスに関する課題
リスク管理戦略研究チーム 岸本 充生


リスク管理戦略研究チーム 岸本 充生 現在、欧米では社会がナノテクノロジーをどのように管理すべきかについて盛んに議論されている。主な論点は2つある。ナノテクノロジーに対して新たに法規制を作る必要があるか、企業の自主管理を積極的に進めていくべきか、それとも両者は両立すべきものか、および、一般市民がナノテクノロジーに関する意思決定にどのように参加していくべきかである。米国では、環境保護庁(U.S. Environmental Protection Agency)が2005年9月、ナノ材料自発的パイロットプログラムを提案した。ナノ材料に関して事業者がすでに持っている情報を自発的に提供する基礎プログラムと、追加的に情報を生産する詳細プログラムからなる。これに対して、2006年1月、ウッドロー・ウィルソン国際学術研究センター(Woodrow Wilson International Center for Scholars)は、現行の法規制体系はナノ材料特有の特性に対処できないこと、および、既存の法規制を改訂するのではなく新法を制定する必要があることを主張する報告書を公表した。新法の内容は、リスク管理という側面だけでなく、ナノテクノロジーの持つ潜在的便益をいかに引き出すかという側面も重視したものとなっている。英国の環境・食料・農村地域省(Department for Environment, Food and Rural Affairs)でも3月、自発的報告スキームが提案された。対象は人工的なナノ材料を開放状態で生産・使用・輸入している事業者で、提出すべき情報は事業者自身がすでに持っているもののみである。同時に政府は、部門ごとに、現行の規制やリスク評価手法がナノテクノロジーの急速な発展に対応できるかどうかに関して調査を実施中であり、すでに環境部門と食品部門からは中間報告が提出された。

規制や自主管理の是非を論じるには、どの製品にナノテクノロジーが使用されているのかを把握することが大前提となる。3月に米国で発表されたナノテク製品インベントリーでは240あまりの製品が挙げられた。CRMでは現在日本版を作成中であるが、米国版にも日本製品が10種類ほど含まれていた。しかし、製品名に「ナノ」と入っていても必ずしもナノテク製品とは限らない。先日、ドイツで「マジック・ナノ」という洗剤を使用した100人余りに呼吸器症状が現れ、製品が回収されたが、その後の調べで当該製品にはナノテクノロジーは使用されていなかったことが分かった。このように製品名に「ナノ」が付いていても使用されていない可能性があり、逆に使用していてもナノ訴求していないものも数多い。そのため、ナノテク製品が市場にどのくらい出ているのかを正確に把握することは案外難しい。

社会に大きな影響を及ぼす可能性のある新技術に対しては、政府や事業者による管理だけでは対処できない。新技術のもたらす潜在的便益を享受するには、社会による受容が必要不可欠である。2006年5月にわれわれが実施した最新のインターネットアンケート調査では、ナノテクノロジーという名前を聞いたことがある人は95%に上り、そのうち9割の人が良いイメージを持っていた。悪いイメージを持っていると回答した人は4%にも満たない。ナノテクノロジーを使用していることを売り文句にしたテレビCMも多い。「iPodナノ」が売れたことが好印象を生み出しているのかもしれない。しかし、ドイツのマジック・ナノ騒動のように、何か事件や事故が起こってしまうと、新技術であるだけに信頼は崩れやすい。一度そういった事態に陥ると、信頼の回復には時間がかかり、社会として享受できたはずの便益を失ってしまう。リスクを避けるためには一見、予防原則を適用すればよいと思えるかもしれない。実際、ナノテクノロジーの技術開発のモラトリアムを求めるETCグループ(The Action Group on Erosion, Technology and Concentration)のようなNGOもある。最近では、8つの消費者・環境団体が、安全性試験が実施され、規制が導入されるまでの間、工業ナノ材料を用いたパーソナルケア製品の発売のモラトリアムと現在市場に出ている製品のリコールを米国食品医薬品局(U.S. Food and Drug Administration)に求めた。しかし、単純に新規技術の導入や開発を止めてしまうことは技術によって得られる潜在的な便益まで失ってしまうことになる。必要なことは、技術の持つプラス面を享受しつつ、マイナス面をいかにして最小化していくかという舵取りである。そのためにはガバナンスというアプローチが適している。ガバナンスとは、特定の誰かが管理するのではなく、社会の様々な関係者がそれぞれの役割を荷って、社会全体として調整・管理していくやり方を指している。関係者としては、中央政府、地方自治体、企業、消費者、マスメディア、NPO、学者などが挙げられる。国際リスクガバナンス協議会(International Risk Governance Council)は、ガバナンスにおける各主体の役割について主要各国の関係者にインタビューを行い、4冊の報告書にまとめた(A:政府、B:産業、C:研究機関、D:NGO)。

ナノテクノロジーのガバナンス体制を確立するためには、それを妨げる可能性のある3種類の不確実性を減らす必要がある。第一は健康・環境リスクに関する不確実性である。技術開発だけでなく、リスク評価のためにも予算や人材を配分する必要がある。技術の開発段階から平行してリスク評価を実施することは、事業者にとって開発に伴う無駄を低減することにもつながる。第二は法規制の不確実性である。将来的にどのような法規制を受けるのか予測が付かなければ企業も研究開発を効率的に実施することができない。健康や環境へのリスクを管理するうえでも、技術発展を促す意味でも、ガバナンスの体制を早期に確立することが求められている。第三の不確実性は社会受容性の不確実性である。科学者や産業界がいくらその便益の大きさを主張しても、その訴えが届かなかったり、人々がそれを望まなかったりすれば、新技術は社会に定着しない。そのためには、リスクがきちんと管理されていることを分かりやすく示すとともに、消費者が便益を実感できることが重要である。

このような課題に答えるために、CRMは次のような研究計画を提案している。まず、既存の法規制体系をナノテクノロジーの社会的管理という視点から見直し、新たな対応が必要な部分があれば提言を行うこと、ナノテクを使った製品のインベントリーを作成し、市場への導入の現状を把握すること、そして一般人のナノテクノロジーに対する認知や感情の定点観測を行い、その動向と変化の原因を探ることである。

 

*独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の平成18年度新規研究開発プロジェクト、「ナノ粒子特性評価手法の研究開発」の委託先として、独立行政法人産業技術総合研究所と学校法人産業医科大学が決定しました。CRMでは今後5年間にわたる共同プロジェクトの中で、工業ナノ材料のリスク評価手法の開発に取り組みます。


化学物質リスク管理研究センター

独立行政法人 産業技術総合研究所