− 詳細リスク評価書 トルエン −
岸本 充生


◆トルエンの環境排出量 

トルエンの特徴は環境中への排出量が多いことである。これは、塗料や印刷インキ等において溶剤として用いられている量が多いことに起因している。回収しなければすべて大気中に放出されることになる。

PRTR(化学物質排出移動量届出制度)における届出排出量の合計はおよそ132,000トン(2001年度)、123,000トン(2002年度)であり、ほとんどが大気に排出されている。2002年度でいえば、全対象物質における届出排出量の合計の42%を占め、大気排出量だけでは48%に達する。

すそ切り以下事業所や非対象業種の事業所、移動発生源などの推計排出量を加えた総排出量はおよそ220,000トン(2001年度)、281,000トン(2002年度)である。

届出排出量が7%減ったにもかかわらず、総排出量が2002年度に6万トンも増えたのは、すそ切り以下事業所からの排出量の推計方法が大きく変わったことと、新たに自動車におけるコールドスタート時の排出量の増分が推計されたことによる。 

本リスク評価書では、大気中濃度を推計するにあたって、固定発生源については2001年度のPRTRデータをそのまま用いた。そのため、すそ切り以下事業所からの排出量は過小評価であるかもしれない。しかし、移動発生源については、通常走行時(ホットスタート)の排出量に加えて、コールドスタート時の排出量の増分と蒸発ガス排出量を独自に推計したため、総排出量は267,000トンとなった。

◆本評価書の対象と限界 

ここで本リスク評価書の限界をあらかじめ指摘しておく。それは、最近トルエンが社会的な問題として取り上げられる2つの文脈を正面から扱っていないことである。しかし、本リスク評価書の対象からはずした理由は、現段階で定量的な議論が困難であることによるもので、決して重要でないと考えているからではない。 

1つは、オキシダント(オゾン)と浮遊粒子状物質(SPM)の原因物質としてのトルエンに関する考察である。2004年3月に「大気汚染防止法の一部を改正する法律案」が閣議決定され、5月に原案通り成立した。これは、オゾンとSPMの環境基準を達成するために、2010年までに固定発生源からの揮発性有機化合物(VOC)の排出を3割削減することを目指すものである。削減対象となるVOC類の中でトルエンは15%以上を占めると考えられている。 

もう1つはシックハウス症候群や化学物質過敏症の原因物質としてのトルエンに関する考察である。マスメディアにおいてトルエンが報道される場合、ほとんどがシックハウス(あるいはシックスクール)問題に関するものである。しかし、トルエンの健康影響を対象とした疫学調査はすべて通常の毒性影響を対象としており、シックハウス症候群についての用量反応関係や無毒性量(NOAEL)などを検討したものは皆無である。

シックハウス問題を扱った書籍などでも事例の紹介が中心であることが多く、一般化することは困難である。また、現在のトルエンの室内濃度指針値は、シックハウス症候群ではなく、労働者における通常の毒性影響(神経行動影響と生殖影響)に基づいている。この他に、吸引目的で違法に売買される物質としてもトルエンは有名であるが、故意の摂取はそもそも本リスク評価書の対象外である。

◆本リスク評価書の構成 

日本に住む人が空気中のトルエンを吸入することで直接生じる神経系への影響をエンドポイントとしたリスク評価を行った。図1は全体の見取り図である。この中から、個人暴露濃度の推計と健康リスクの定量的な表現、リスク削減対策の効率の検証について以下に紹介する。


図1 リスク評価書の構成

◆個人暴露濃度の分布 

個人暴露濃度を、室内空気中濃度と大気中濃度を室内室外生活時間比率(9対1)で加重平均したもの、室内空気中濃度を、大気中濃度と室内発生源寄与濃度を足し合わせたもの、であると考えた。これを式で表すと次の通りである。

個人暴露濃度=0.9×室内発生源寄与濃度+1.0×大気中濃度 

1998年に厚生省(当時)が行った全国調査の室内濃度・室外濃度を情報公開請求によって入手し、そこから室内発生源寄与濃度を計算した。その室内発生源寄与濃度を対数正規分布として扱うことによって、個人暴露濃度を分布として表現することができた。 

また、室内発生源寄与濃度の年間平均値の家庭間分布も限られたデータから導出した。厚生省のデータから得られた室内発生源寄与濃度の分布は、1日平均値の家庭間分布であるのに対して、本リスク評価書は慢性暴露による健康影響を対象としているため、年間平均値の家庭間分布に関する情報が必要であった。

そこで、年間平均値の家庭間分布は、1日平均値の家庭間分布から、「1時間あたりの換気回数の1日平均値の日間変動(通年)」と「室内発生量の家庭内での日間変動(通年)」を引くことによって求めることにした。前者の変動を20倍、後者の変動をゼロと仮定した。

◆健康リスクの定量化 

健康リスクの大きさは2通りの方法で表現した。1つは「参照値を超える人数」を計算する方法である。これは、暴露濃度と参照値を比較するという一般的な手法をベースに、暴露濃度に分布を持たせるという拡張を行ったものである。そのため、平均値や95パーセンタイル値と参照値を比較して安全かどうか二分法的に論じる従来のタイプの評価よりも、リスクの程度を、数字を使って量として検討することが可能になった。推計結果を表1に示す。 

表1 個人暴露濃度が参照値を超える人数の推計

参照値を超える人数による評価は、参照値をわずかに超えているのか、大幅に超えているのか区別することができず、リスクの大きさを他の化学物質などと比較することも困難である。そのため、本リスク評価書では、生活の質(QOL)という概念を用いて、様々な自覚症状の発現を「QOL低下量として定量的に表現する方法を開発した。

これによって余命の損失に至らないような軽度の健康影響を損失余命や発がん影響と比較できる可能性が開けてくる。現段階では方法論の提案という側面が強いが、今後さらに手法が洗練され、適用範囲が広げられるならば、異なる化学物質との間でリスクの大きさやリスク削減対策の効果を比較することが可能になるだろう。結果を表2に示す。計算過程などは評価書本文を参照していただきたい。

表2 年間QOL低下量の推計


◆リスク削減対策の効率の検証 

大きな事業所では、濃度の高い排出口での対策が進み、最近では、排出削減対策の対象が、濃度が薄く、処理ガス量の多いところに移ってきている。そのため、エンドオブパイプ対策は、活性炭吸着法による回収・再利用よりも、蓄熱燃焼法による焼却処理が主流になってくると予想される。

蓄熱燃焼法を用いてトルエンを処理した場合の1トン排出削減費用を計算した。トルエン濃度を自燃濃度の下限に近い1,500mg/m3(400ppm)とし、処理ガス量を7,500m3N/hから100,000m3N/hとした結果、3〜10万円となった。この数値は、トルエンについてすでに実施された対策や他の化学物質について計算された数値と比較することによって、効率的であるかどうかをある程度判断することができる。

例えば、同じ芳香族炭化水素であるが、発がん性を有し、トルエンよりも毒性が強いと考えられているベンゼンでは、有害大気汚染物質の自主管理計画における1トン排出削減費用は平均29万円であったことから、1トン排出削減費用が20万円を超えるトルエン対策は高すぎると判断してよいだろう。 

次に、PRTR届出事業所からのトルエン排出量が1割削減されるというシナリオのもと、費用効果分析を行った。効果の指標は、トルエン暴露による自覚症状が減ることにより増えるQOLの量、すなわち質調整生存年数(QALY)獲得量である。すべての施設において、先に示した蓄熱燃焼法を用いるならば、対策によって年間1.6(年)のQALYが獲得できると推計された。

1トン排出削減費用を3〜10万円とすると、年間総費用は4〜13億円となり、QALYを1年獲得するための費用は3〜8億円となった。これは、これまでに実施された化学物質対策の1年余命獲得費用よりもやや高価である。トルエンの排出削減は、代替物質への転換や製法の変更といった工程内対策も有効であり、費用も安い場合が多い。工程内対策とエンドオブパイプ対策をうまく組み合わせると、費用対効果のより良い削減方法を見つけることができるだろう。

◆今後の課題 

トルエンの有害性評価に関しては、ヒトでの疫学調査は多数行われており、用量反応関係が見出されている。しかし、毒性発現メカニズムについてはまだ分かっていない。近年は感度のよい検査が導入され、自覚症状がない場合でも、何らかの変化が見出される場合が多いものの、それが将来の自覚症状の前兆なのかどうか、回復可能な影響なのかどうか定かではない。また、疫学調査におけるエンドポイントと、シックハウス症候群や化学物質過敏症のエンドポイントの関連も不明である。 

排出量推計に関しては、すそ切り以下事業所、非対象業種、移動体からの排出量の推計に際して不確実性が大きい。 

個人暴露濃度に関しては、室内発生源寄与濃度における年間平均値の家庭間変動のより信頼性の高い推計が必要である。そのためには、同一家庭で、室内外濃度と換気回数を年に複数回測定してデータを収集する必要がある。 

QOLを用いたリスク評価に関しては、用量反応関数の導出方法や健康状態のQOL値の決め方に関してさらなる考察が必要である。また、従来の損失余命を用いた評価との比較可能性についても検討すべき点が多い。

*「詳細リスク評価書 トルエン」の概要版をCRMインターネットホームページで公開しています。
http://unit.aist.go.jp/crm/

*詳細リスク評価書は、(独)新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)によるプログラム「化学物質のリスク評価及びリスク評価手法の開発」 の成果である。


化学物質リスク管理研究センター

独立行政法人 産業業技術総合研究所