− 特集:詳細リスク評価書 (1)フタル酸エステル ━ DEHP ━ −
吉田喜久雄、内藤航


◆はじめに 

フタル酸ジ(2-エチルヘキシル)(DEHP)は、主に塩ビ樹脂の可塑剤として使用され、わが国における2001年のDEHP出荷量は20万トン強である。DEHPを含む軟質塩ビ製品は、シート・フィルム、電線被覆、農業用フィルム、壁紙、建材、ホース・ガスケット、履物、医療器具等、我々の身の周りで広範囲に用いられている。また、DEHPは、蒸気圧が低く、疎水性の物質であり、化学物質審査規制法の既存点検では分解性良好で低蓄積性と判定されているが、環境中での分解は比較的遅い。このため様々な環境媒体や食品中で検出されている。 

DEHPについては「内分泌かく乱作用の有無に関わらず、従来の知見で生殖・発生毒性による影響がみられることから、有害性評価や暴露評価を踏まえてリスク評価を実施し、適切なリスク管理のあり方について検討すべき」と指摘されており(経済産業省 化学物質審議会)、生態リスクについても、「淡水域については詳細リスク評価を行う候補、海水域については情報収集に努める必要がある」と判断されている(環境省 環境リスク初期評価)。

さらに、米国、EU、カナダ等においても有害性評価やリスク評価が実施されている。このように国内外で有害性やリスクが評価され、わが国でも一部用途へのDEHP含有軟質塩ビの使用が規制される中、産業界も既に様々な自主的取り組みを進めているが、DEHPのリスク評価に基づく適切なリスク管理のあり方については、より一層の情報収集や詳細な暴露解析に基づいて評価・検討する必要があるため、ヒトと環境中の生物へのDEHPのリスクを詳細に評価した。DEHPの詳細リスク評価書の構成を図1に示す。


図1 DEHPの詳細リスク評価書の構成


「詳細リスク評価書フタル酸エステル−DEHP−」の作成に携わったメンバー(左上から時計回りで内藤航、神子尚子、小山田花子、手口直美、吉田喜久雄、蒲生吉弘)

◆DEHPの環境への排出と排出量 

DEHPを含む軟質塩ビの用途は多岐にわたり、耐用年数がかなり長い製品も多いため、DEHPの製造、軟質塩ビ製造と各種製品への加工、製品の使用、製品の廃棄という一連のライフサイクルの様々なステージからの排出量をPRTR制度の調査データや用途別のDEHP出荷量等から推定した。 

DEHPを取り扱う事業所については、2001年度のPRTR調査によれば、届出対象事業所からのDEHPの環境排出量は、392,359kg/年で、その99.8%が大気への排出である。また、届出外排出量推計値の合計は、1,180,200kg/年である。このうちの98.8%が対象業種を営む事業者からの裾きり以下の排出量推計値であり、届出対象事業所と同様に大部分が大気への排出と考えられる。 

使用中および廃棄後の軟質塩ビ製品からの環境排出量推定に先がけ、DEHPの用途別の平均耐用年数から用途別の寿命関数を導出し、この関数を基に1952年から2001年までのDEHPのストック量と廃棄量の経年変化を推計した。使用中の塩ビ製品からのDEHPの大気排出量については、用途毎の軟質塩ビ製品からの大気へのDEHP排出係数を推定し、ストック量に乗じることにより経年変化を推定した。水域へのDEHPの排出量については、屋外用途の塩ビ製品からの排出量は、ストック量と水域への排出係数から推定し、屋内用途の塩ビ製品や最終処分場からの排出量は、モニタリング濃度に水使用量や浸出水量を乗じて推定した。 

DEHP製造、軟質塩ビ製品等の製造および製品使用時のDEHPの大気への排出量は、表1に示すように届出対象外事業所の寄与が大きく、それにより、事業所が集中している関東地方での排出量が他の地方に比べて多い。

表1 大気へのDEHP排出量(2001年)、トン/年


使用中の塩ビ製品と廃棄後の最終処分場から水域に排出されるDEHP量を表2にまとめた。排出されたDEHPは全てが公共用水域に到達するわけではなく、下水処理場を経由した場合97%が除去される。最終的に公共用水域に到達するDEHP量の90%以上は屋外用途の塩ビ製品の寄与である。

表2 水域へのDEHP排出量、トン/年


◆ヒト健康リスク評価

有害性評価と用量−反応評価: DEHPがヒト発がん性物質である可能性は低いと考えられるため、ヒト健康リスク評価では、発がんは考慮せず、非発がん性の有害影響として現時点の暫定的なエンドポイントとしての精巣毒性と、生殖毒性を採用した。 

Poonらの試験のラットでのNOAEL(3.7mg/kg/日)をリスク評価に用い、生殖毒性試験についてはLambらの試験のマウスでのNOAEL(14 mg/kg/日)をリスク評価に用いた。 

精巣毒性のリスクを判定する際の基準マージン(Margin)として、感受性の種間差を説明する3と個人差を説明する10の積30が妥当と判断し、生殖毒性のリスクを判定する際のMarginは種間差を説明する10と個人差を説明する10の積100が妥当と判断した。

リスク判定: 既報の屋内外空気中と食事中のDEHP濃度を用いて、DEHP摂取量を年齢群別にモンテカルロ・シミュレーションにより推計した。その結果、幼児期のDEHP摂取量がかなり高く、また、全摂取量には食事経由の摂取が大きく寄与し、屋内外空気の吸入はほとんど寄与しないと判断された。さらに、モニタリングデータ等に基づき1歳未満の乳幼児の乳類(母乳と人工乳)および離乳食経由のDEHP摂取量も推計した。これらの摂取量がNOAEL/Marginを超える確率としてリスクを判定した結果、精巣および生殖毒性のリスクは懸念されるレベルにないと判断した。

京浜地区一般住民の主要暴露経路の推定: 数理モデルと農作物・畜産物の生産・出荷量データ等を基に、京浜地区を対象に、農作物、畜産物および水産物経由のDEHP摂取量を推計した(図2)。その結果、京浜地区の一般住民は主に全国から集荷された国内産の畜産物経由でDEHPを摂取し、さらに、国内産の農作物や輸入畜産物からもDEHPを摂取していると推定された。また、排出源別では、PRTR制度により推計された届出対象外事業所からの大気への排出の寄与が大きいと推定された。


図2 京浜地区一般住民のDEHP摂取量推計のまとめ

排出削減対策の費用対効果: DEHP摂取量に大きな寄与をするPRTR制度の届出対象事業所と届出対象外事業所について排ガス処理対策の費用と効果を試算した。2001年度のPRTR調査で年間1トン以上のDEHPを大気中に排出していると報告した届出対象事業所に、HEAF(ロール状硝子フェルト方式)またはパイプフィルター設備を導入すると仮定した場合、大気排出量を1トン削減する費用は214万円で、この削減で京浜地区一般住民のDEHP摂取量は若干(0.2〜0.4μg/kg/日)低減すると推定された。届出対象外事業所の3/4を占めるプラスチック製品製造業の各事業所にHEAFを導入した場合、事業所当りの排出量1トン削減費用は298万円で、京浜地区一般住民のDEHP摂取量を0.7〜0.9μg/kg/日減少すると推定された。

ヒト健康リスク評価のまとめ: 本評価書では、既報の利用可能なデータと科学的知見に基づいて、わが国でのDEHPのヒト健康リスクを判定したが、都度示したように、モニタリングデータによる摂取量の推定とモデリングによる排出源からヒトに至るDEHP主要暴露経路の推定の際して不十分あるいは欠損データ等を補完するために仮定をおいた。これらの仮定の妥当性は、今後の調査・研究により検証されると考えられる。

◆生態リスク評価 

DEHPの生態リスク評価では、エンドポイントを各種水生生物の個体レベルの影響(致死、繁殖、成長および発達)とし、公共用水域のモニタリングデータと水生生物の無影響濃度(NOEC)に基づき、水経由および底質経由の暴露について暴露マージン(MOE)を求め、不確実性を考慮し、リスク管理・対策の必要性を判定した。

暴露評価: 環境省、国土交通省および地方自治体等から公表されている水質および底質のDEHPのモニタリングデータについて統計解析を行い、水域別(河川、湖沼、海域)および年度別の濃度分布を求めた。例として、河川水中DEHP濃度の解析結果を図3に示す。モニタリングデータの統計解析では、各データの信頼性評価は実施せず、利用可能なデータはすべて同等に扱うという立場をとった。リスクの判定には、一般環境における暴露による評価を基本として、公共用水域の大部分がカバーされる95パーセンタイルの値を用いた。


図3 河川水中のDEHP濃度

暴露濃度解析の事例として多摩川を取り上げ、河川へのDEHPの主要な負荷発生源を特定し、負荷発生源からの発生負荷量を推計した。その結果、雨水が屋外用途製品に接触して溶出されるDEHPによる寄与が最も高く、多摩川への発生負荷量全体の約78%に及ぶことが示された。

その推計結果を入力データとして、水系モデルAIST-SHANEL ver.0.8βを用いて多摩川における水中DEHP濃度を予測したところ、定量的なモデルの予測精度についての議論は難しいが、上流から下流にかけてDEHP濃度が相対的に高くなる地点や季節を視覚的に確認することができ、水系モデルAIST-SHANELの暴露濃度解析やコミュニケーションツールとしての有用性を示すことができた。

環境中の生物への有害性: DEHPの環境中の生物への有害性に対する網羅的な調査・検討を行い、リスク判定で用いるNOECを決定した。DEHPは、難水溶性であり、コロイド状に分散する特性を有するため、水生生物への生態影響試験を行う際、試験水の調製、暴露濃度の維持、結果の解釈などに問題が生じやすい物質である。このようなことから、DEHPの生態影響試験は数多く存在するものの、明確な濃度−影響関係が求められた試験はほとんど存在しない。多くの試験における影響濃度あるいはNOECは、"試験最高濃度以上"と表現されており、影響濃度の確定値が提示されているものは非常に少ない。 

本評価書では、水経由暴露については、信頼性の高い方法で行われた生態影響試験の中で最も低いNOECが報告されているRhodesら(1995)のオオミジンコに対する慢性毒性試験から求めたれたNOECinvert=0.077mg/Lを、NOECwaterとしてMOEの算出に用いた。この試験結果は、本来の毒性ではなく、試験水表面に形成された膜に捉えられた物理的な影響であるとの見方が強いが、現段階では、物理的な影響と本来の毒性をはっきり区別することは出来ないこと、また、物理的な影響も、DEHPの特性に起因する水生生物に対する有害影響とみなせることを理由に、このデータをリスク評価で採用することにした。 

底質経由の暴露については、現時点において、質・量ともに十分なデータは存在しないが、既存のデータに基づき、比較的信頼性が高いと思われる水生無脊椎生物(Callら、2001)および両生類(Solyomら、2001)への底質毒性試験から報告されているNOECをリスク評価に用いるデータとした。両者のうち、低い方のNOECは、両生類の1,000mg/kg-dry以上でも影響がみられていないというデータであり、本評価書では、その値を便宜的にNOECsed = 1,000mg/kg-dryとしてMOEの算出に用いた。

リスク判定: 水生生物へのリスクは、NOECを環境濃度で除した値、つまりMOEを求め、不確実性を考慮し判定した。生態リスクを判定する際のMOEの基準は、DEHPの有害性についてのこれまでの知見や証拠の重みを勘案し、水質および底質とも実験室から野外への外挿に伴う不確実性である10が妥当だと判断した。つまり、MOEが10より大きい値となった場合は、リスクは懸念レベルでないと判断し、10より小さい値となった場合は、不確実性を考慮して、適宜、影響発現の可能性や対策の必要性を判断することとした。 

表3に河川水におけるMOE算出結果を示す。ここでは、モニタリングデータの統計解析により導出した幾何平均と95パーセンタイルの値、さらに参考値として実測データの最大値に対するMOEを示す。その結果、MOEは、一般水域のモニタリング地点における99%以上の地点において10以上となった。

表3 水質におけるMOEの算出結果
 

MOEの数値および環境中におけるDEHPの存在形態等を考慮すると、わが国の一般水域の水質におけるDEHP現状汚染レベルにおいて、水生生物が有害な影響を被る可能性は極めて低いと判断し、リスクは懸念レベルではないと判定した。 

底質経由の底生生物におけるMOEは、一般水域において、1地点を除く全ての地点において10以上となった。これより、わが国の一般水域の底質におけるDEHP現状汚染レベルにおいて、底生生物が有害な影響を被る可能性は極めて低いと判断し、リスクは懸念レベルではないと判定した。 

以上のリスク判定結果より、現在のわが国における一般水域でみられているDEHP汚染レベルから判断すると、生態影響のリスク管理・対策のための早急な対応は必要ないと考えられる。この判定は、既存の利用可能なデータを十分検討し導いた結論であるが、本評価には、欠損データや不確実性のため、安全側の立場から便宜的に仮定した条件も含まれている。よって、このような仮定の検証やより信頼度の高い生態リスク評価のためには、DEHPの高濃度検出地点における原因解明調査、定期的なモニタリングおよび信頼性の高い底生生物への生態影響試験の開発等、さらなる調査や研究が必要である。


化学物質リスク管理研究センター

独立行政法人 産業業技術総合研究所